「公平さ」に縛られる人たちの葛藤と誠実さ
私はよく、自分が「正しい」「悪い」というこだわりに縛られていると思うことがあります。
そして、鬱病になる人たちには、私と同じように「公平さ」を愛する真面目な人たちが多いのではないかと感じることがあるんです。
一方で、鬱病にならない人たちは「公平さ」を唱えながらも、どこかで自分が損を被らないようにバランスを取って、利益を取り返す術を持っているように見えます。
でも、鬱病になる人たちは違います。
彼らは、善意を惜しみなく差し出す一方で、自分のことを後回しにしてしまうんです。
まるでお返しなんて要らないと言って、その結果、自分が困窮してしまう…そんな人が多いイメージがあります。
「公平さ」を掲げる人たちをメディアで見ると、私はどこか違和感を覚えることがあります。
たとえば、ユニセフ親善大使のような人たち。彼らの掲げる理念は立派だけど、実際にはイタリア製の高価な家具に囲まれ、たくさんの貯金を持っていることが多いように思うんです。
つまり、どこかで自分の利益を取り戻している。
そういうことができる人たちなんだと感じます。
でも、鬱病になる人たちにはそれが難しい。善意は純粋な善意のままで、対価やお返しを求めないんです。
だからこそ、「公平さ」という言葉の重さをよく知っているのだと思います。
軽々しくその言葉を口にしないのは、その重みを感じ取っているからこそでしょう。
私が思うのは、そういう誠実な人たちの価値をもっと見直すべきだということです。
世の中の人は、そういう人たちに対して「あなたは不器用ね」「馬鹿ね」と言うかもしれません。
でも、私はそうは思いません。
むしろ、あなたほど誠実な人はいない、と心の中でそう思っています。
それは、きっと誰も知らないけれど、私が強く感じることです。
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