藤茂太の言葉は私には響かない—自己啓発の限界と価値観

斎藤茂太の言葉は私には響かない—自己啓発の限界と価値観

こういうポストが流れてきたんだ。

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自己啓発の言葉は本当に役立つのか?

自己啓発の本や名言には、「ポジティブになれ」「楽観的に生きろ」といったシンプルなメッセージが繰り返されることが多い。しかし、これらの言葉が本当に意味を持つかどうかは、人それぞれだ。

私は結論を言おう。慢性的なうつ病患者には、こうした言葉は一切響かない。困ったもんだ。文章としてはきれいで、一見良い言葉に聞こえる。しかし、我々には届かない。でも、なんとか試行錯誤してこころみようとするのだが駄目なんだ。

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斎藤茂太の言葉—本当に響くか?

斎藤茂太氏の言葉には、以下のようなものがある。
✅ 「楽観的になりたいなら、客観的になることだ」
✅ 「良い自己暗示をかけなさい」

うつ病患者は、命を懸けながら生きている。だからこそ、「楽しく生きたい」と思い、自己啓発本をたくさん読む。狂うほど「生きるとは何か」と書かれた本を漁る。実際に、私はかなりの数の本を読んできた。しかし、内容をほとんど覚えていない。

ポジティブな暗示をかけようとしても、うまくいかない。暗示がかかる人は、きっと救われているのだろう。でも、私は暗示がかからない。そして、それがまた困る。

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暗示も洗脳もかからない私

以前、ある著名人が「カルト教団に入っている子供を家族が必死で引き離そうとする。でも、本人は幸せなのかもしれない」と言っていたことがある。この発言は、カルト教団を肯定するものではないが、家族からすれば大変なことだから、必死に出したい気持ちは痛いほどわかる。

しかし、その言葉を聞いたとき、ふと思った。
「もしカルト教団に入ることで、本人が本当に幸せを感じられているなら、それは幸せなのではないか?」

もちろん、オウム真理教のような組織が引き起こした事件や犯罪行為は、決して許されるものではない。こうした行為は、社会的にも倫理的にも重大な問題だ。しかし、組織の中で修行をしていた人々の中には、上層部の行動を知らず、純粋に教えを信じていた人もいたのではないかと思う。

ただし、このテーマは非常に複雑で、個々の状況や背景を慎重に考える必要がある。だからこそ、安易に肯定や否定をするのではなく、冷静に事実を見つめることが大切だと感じる。

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もし私を幸せにできる教団があるなら

私自身、もし「うつ病から逃れられる」と確信できる教団があるなら、即入るかもしれない。幸せを求める気持ちは誰しもが持つものだ。

ただ、現実には、私はいまだにどの宗教団体にも属していない。なぜなら、私にとっての幸せは、単なる教えや暗示ではなく、もっと深いところにあるように感じるからだ。

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自己啓発の限界—ポジティブ思考は万能ではない

自己啓発の世界では「ポジティブ思考」が推奨される。しかし、現実には以下のような問題がある。
📌 根本的な問題解決にはならない(単に前向きになっても、環境が改善しなければ意味がない)
📌 「楽観的になれない自分」に罪悪感を抱く(できないことで余計に落ち込む)
📌 個人の価値観によって受け取り方が異なる(万人に合うアドバイスは存在しない)

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仏教哲学との比較—深い洞察のある言葉

仏教には、スッタニパータの**「犀の角のようにただ独り歩め」**という言葉がある。これは「他人に流されず、自分の道を行け」という意味だ。こうした哲学的な言葉は、単なる自己啓発よりも深い洞察がある。

というか、これはすんごい昔に書かれたものだ。むしろ、こっちが先駆者だろう。コピーにコピーを重ね、薄められていった現代の言葉とは、まったく異なる。

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まとめ

自己啓発の言葉は、人によって響くかどうかが大きく変わる。原始仏教や聖書のほうが、現代に出版される自己啓発本よりも心に響く気がする。しかし、今の私にとっては、どちらも気休めにすぎない。

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